生きてるだけで100点。

生きてるって何かを表現することでしょう 表現せずにはいられないのかも知れません..............虚空に逃れようとしても ここにいるのを誰かに見つけて欲しいのかも知れませんね

LGBTQ 性自認と友人関係について

自分自身を扱う上での厄介さ。性について。

女性か男性かっていう、生物学的分類で言えば、私は女性だけど。だからって、全ての事柄がすっぽり「女性らしいもの」に収まるわけじゃない。性自認が「女性」か「男性」かで、「自分は男性だ」という意識でいるわけではないが。だからって「女性100%」っていうわけでもないのに、本気で恋をする対象は男性だ。でも、友達になりたいと思うのは、女性ではないことが圧倒的に多い。

じゃあそれは、恋心にはならないかというと、恋心ではない。

恋しさを埋めたいから、近づくんではなく、人としての共感と興味から、友達になりたいと思うのだ。

幼稚園児が自然にできる、性的な感情なしに異性と交流すること。

それが大人になると、理解してもらいにくい。ましてや、「自分は、女性としてではなく、人間として、友達になりたいです」と言ったところで、それが成立するかは、難しいのが、現状だ。

 

こう説明したら、どうだろうか?

「私はLGBTQの中のQ的な自覚がある。世間一般にはLGBTQは性同一性障害やhomosexual、異性の格好をしている人たち、広めにとったら、アセクシャル、ポリアムラーも入るのかもしれないけど、この言葉が、現代の性的なジャンルにおけるマイノリティーを割とフランクに総称してくれていると思う。その中でQはご存知のクエスチョンマーク[?]のQであり、一番でっかいキャパシティのあるくくりなわけで。レズビアンでもない、ゲイでもない、バイセクシャルでもない、トランスジェンダー(性転換)希望もない、異性装の願望もないけど、同性(女性)とぴったり友達になれない、なれる相手がいない、同性(女性)が離れていく、自分もなんとなくしっくり来ないから、踏み込めないっていうのは、コミュニケーション障害ではなく、自分がLGBTQのQだからなんじゃないかと思ったのだ。

 

都合のいい解釈なのかもしれないけど、自分が女性と心から打ち解けた友達になれない孤独なまんまの理由は、セクシャリティに起因しているのかもしれないという仮説を立てた経緯を説明する。

私がLGBTQのQまで知ったきっかけは、(性同一性障害を知ったのは、金八先生上戸彩が演じた役がセンセーショナルに話題になった時代、さらに踏み込んで、性別適合手術まで行くのに、どういうプロセスがあるのかを知ったのは、スザンヌみさき氏のMtF動画。バリバラやジューダイとか本当にいろいろ観てた。)スザンヌみさきの女体化チャンネルや関連動画で出てくる新進気鋭のさまざまなLGBTQのYouTuberたち、例えばかずえちゃん、キットチャンネルなどなど。

スザンヌみさき氏は男性から女性にトランスジェンダー(性転換)をするまでの過程で起こる苦労や悩み、疑問をインターネットに公開し、無料で見られて、信憑性のあるトランスジェンダーの情報を積極的に共有できるよう、いち早くブログや動画でのトランスジェンダー情報を投稿し始めた人物である。私は、スザンヌみさき氏が、どういう考えでトランスジェンダーしたいかを、興味を持って聞いていた。トランスジェンダーしたいのは、精神的な理由なのか、肉体的な理由なのか、何がどう、違和感なのか、どうして女性になりたいのか、そこを理解しようとして、注意深く聞いた。今迄私がイメージしてきた「自分自身が女性そのものなのに、男性の身体であることへの苦痛から、トランスジェンダーをしないと、辛すぎて生きていけないのかどうか、それとも、女性への憧れなのか、あるいは、男性という性への違和感から逃れたいのか、もしかして、私みたいな…。」というのを確かめるために。

 

私は、別に性転換希望はないが、だからって100パーセント女性ってわけじゃない。それは、女性の中に入ると、100%ホームではなく、どっかアウェーな感じだから。きっと性転換希望する人も、産まれた性別には、どこかアウェーな感じがあるに決まってると私は推測する。じゃあ、なぜ、そもそもの性別を捨てるのか。「女を捨てたら、男であり、男を捨てたら女なのか?」そこが一番の疑問だ。

確かに男と女は対立要素だけど、持って生まれたペニスを切り落とすと、それは女であるのか?去勢したオスではなくて、身も心も女に自動的になるものなのか?という疑問だ。(これはもちろんLGBTQのなかでは常識だが、自動的に異性になるわけではない。スザンヌみさきさんも散々動画で紹介しているが、ホルモン注射や、声帯の手術、メイク、ファッション、所作、言葉遣い、全部、男性から女性に見られるように、女性仕様にするのは、本人の涙ぐましい努力以外の何ものでもないし(そこまで女体化、男体化の努力をしても、本物の女体、男体にはなれないのは、逆に悲しすぎる、(手術前、ホルモン注射前の身体の方がナチュラルで、異性から見ても同性から見ても自然体ならばその自然体を自分から切り捨てたり、加工するのは、もったいないという気になる)

性転換したら、既存の性別から、異性になれるとは、幻想ではないか?と疑っているというより、性器を切開しても、自分は自分だろうし、性器を持って生まれたことが性自認への妨げになっているのだとしたら、性器を捨てることで、解決する単純なことなのか?だとしたら、同性の中で馴染めない自分の悩みより、単純なのか?むしろ、同性の中で馴染めない奴は、性器を捨てることで、楽になるものなのか。

でも、私が性転換を志願しないのは、別に性転換したから、逃れられる何かがあるわけではないっていう気がするからだ。女性(産まれた時のデフォルト)を否定したり、女性器を否定したり、生理があることを面倒くさいと思ったとしても、同性の中でアウェーでも、結局、性転換したら、変わるっていう話ではない気がしてしまう。結局、性のデフォルト、初期設定を受け入れることが、大事なんじゃないかと言ったら、トランスジェンダーの人には、失礼なのかもしれない。でもそんなことで傷つくほど、トランスジェンダーの人たちはヤワではない。強い人が多い。人の痛みがわかる人たちばっかりだ。けれども、初期設定の性別と性自認の矛盾や違和感があるのは、当たり前なんだと受け入れて、初期設定の性別ののまま頑張って生きていこうという立場の非トランスジェンダー組はLGBTQのQを名乗ってもいいんじゃないかと思う。ダメか?それはLGBTQのくくりには入れてくれないのか?

「同性と友達になりたい」と思っても肝心の同性に友人的シンパシーを感じにくくて、どうしても同性の中で共感しきれない、孤独な部分がある。時々趣、味の合う異性に出会うと、異性としてよりも、“こういう人が同性で居たら、友達になりたい”にぴったりの人で、あなたは、晴れて合格しました。とクラッカーが頭の中にパンパンなる時があるが、相手もそう思ってくれているかというと多分そうじゃないんだろうな…。という人間に対して、それはLGBTQのQにも混ぜてもらえないのか。やっぱアウェーだなって思う。混ぜてくれよ。お願いだから。ただでさえ、受け皿がないんだ。同性とはアウェーだし、異性には、友達のつもりが距離置かれる。

そんな「人間」は=LGBTQのQで、デフォルトの性やデフォルトの性器を捨てずに、あるがままの自分を受け入れながらも、孤独に耐えてる奴って認定しておくれ。「女性とは異性ではない。男性とは、同性ではない」っていう状況下で、

メリットは何だろう?って考えたら女性から見て同性である以上、対異性の行動はされないので、

もしかしたら女性から見て異性よりは、マイルドなのかもしれない。そして、男性から見て異性なので、対同性に対しての行動よりは、マイルドなのかもしれない。同性の友達同等に、フランクな対応してくれることもないけど、ライバル視されたり、攻撃の対象になりにくくはなっているのかもしれない。結局。性別というタグで、差別されてしまうのも、当たり前なんだろう。

セクシャリティ性自認は、オス、メス、極と極の有意差であり、他人に接触しようとしたり、接触れさられる時、対外的に極と極で差別化されてしまう。自分の内側で起きていることが、正しくは理解されて、尊重されたら、どんなに幸せだろう。

現実は、2極の中にスッキリ収まるとは限らない。セクシャリティはレインボーだというスローガンを聞いたことがある。

 

性自認は受け入れて、問題なくても、まだ他に違和感は、あるんだよって話。