生きてるだけで100点。

生きてるって何かを表現することでしょう 表現せずにはいられないのかも知れません..............虚空に逃れようとしても ここにいるのを誰かに見つけて欲しいのかも知れませんね

拝啓、ベテルギウス さま

いつ超新星爆発してもおかしくないのにな、って今日もオリオン座を観ながら思いました。

しかしながら、それも完璧だと受け入れるしかないのだと。


ベテルギウス は確かにもう存在しないのかもしれない。いや、たぶんそうだろう。でも観に行って確かめに行く!なんて言ったら、もう帰ってこないに等しい。だから想像するしかない。
もし、明日爆発してもおかしくはないけど、今日も平穏な姿を見せるベテルギウス には、裏の顔がある、キミはもう居ないんだ!と確信しながら。

ただ、光の速さで600光年だから、
光で確かめに行こうとしても600年。

今この瞬間超新星になったら、600年前の出来事。そう言う話を私がして、弟がキレてしまいました。ベテルギウス超新星爆発したら、
かに星雲超新星爆発1054年以来のとてつもない出来事だから、すごくない?っていう話をしただけのつもりが、「姉と話してても自分のこと全然気遣ってくれなくて、癒されない、長々と聞きたくもない天文の話ばかりされた」っていう風になったんですね。

(基本的には女性同士でもそういう風に盛り上がって話せたら良いんですけど、女性でベテルギウス を世間話の範疇で語る人が身近にいればいいんですけどね。)

 

宇宙の大きさ、光の速度ってことを考えると、地球上で見えてるものとは違う概念が出てくる。

見えてるのにないってスゴく不思議で、どういうことなんだろうって、わかりもしないくせに、ずっと考えてしまいます。

時の概念とかも、いくら考えてもたどり着けず、不思議で不思議で、どんどん引き込まれてしまいます

 

「見えているのにない」に似たことなんて、実は日常生活でも毎瞬間起きてますよ。
だって言葉も発せられてから届くのに時間差は必ずあるし、脳の神経と神経の間だってミリ秒単位で距離とタイムラグがある。ミリ秒のタイムラグと、1000光年のタイムラグは長さの違いが大きいか小さいかだけで、原理は同じことです。

 

子供の頃にはなかった「マルチバース」という考え方が今は当たり前になっているし、人の身体の中にも宇宙のような、もっと時の流れの早い世界が存在するんじゃないかと思ってます。

マルチバースって結局全部の可能性はもう全部すでにあって、パターンは可能性として全部既に用意されているっていうとんでもなく、「全てもう出来上がったものだ」っていう考え方に思えるやつですね。

自由意志だとか、右か左かっていうのは、もう既に完成した状態でもともと存在してるんですもんね。
ってことは、もう第二回の路上ライブの歌い終わった結末もマルチバースなら既に存在しているし、
マルチバースなら時系列っていう考え方も崩壊するし、有と無の運命論は、幻想になっちゃって、どこで何しようが、マルチバースの中の1ページみたいなそんな世界観のなかに私はいるんでしょうか?

 

今日はペットのうさぎがちょうど亡くなって一年で、亡くなった経緯をちゃんとブログに書こうと一年前に決意して
さっき書き上げて、アップしたのですが、やっぱり泣けて泣けて、泣きながら書いて、一年経って書いててもこんなに泣けるもんかと思うくらい泣いて、
得たものを失うっていう体験を見つめてました。
得た瞬間から失う運命だからこそ、尊い瞬間だったんだ、全てが既にそうなんだと思います。