生きてるだけで100点。

生きてるって何かを表現することでしょう 表現せずにはいられないのかも知れません..............虚空に逃れようとしても ここにいるのを誰かに見つけて欲しいのかも知れませんね

母親の価値観と自己肯定感 

 

路上仲間とストリートで小一時間歌い、夜11時半に帰った時は、帰ったら母親が寝てましたが、外で歌って来たことも未だに言ってません。(半年後言いましたが、何一つ深く聞かれませんでした。)母親がそういうのに理解や興味がある人じゃないからです。

子供と関わるボランティアだって、母親の興味がない話(母親はボランティアするなら、仕事で金稼ぎの方がいいと必ず言う人)をしたって、水を刺すようなことを言われるのが、目に見えているので、言いません。

ボランティアっていうのは、場との相性もありますが、半年はただ通って、信頼関係を築くために時間を積み上げなきゃならない部分があって、そこまでは続けてみないとなんとも言えない部分はあります。人と人だから、最終的には、自分次第で、糧にもなるんですけど…

仕事だけやってたら、それで満足っていうより、ボランティアで、私は割といい出会いができたりしたから。

仕事で成功体験より挫折のほうが多いし、社会って空気読まなきゃならない部分が、お金頂く仕事にはありがちだし、そういう意味では、お金になるかどうかより、自分が本当にやりたいと思えることや、してあげたいと思えることを自分の最善の方法で最適に施すことの自由があることで、自分自身の自己表現や生きがい、人と繋がりあうことの手段にボランティアがあります。

 

こういう理念を持ってボランティアに参加することを、親に理解してほしいとは思いませんが、

仕事の価値観、社会の価値観とはまた違う自分の価値感で行動できるような活動には、魅力を感じます。
疲れなど感じないくらい、そういう部分に共鳴できれば、いっぱい休むより、少し休めばいいっていう気持ちになれるんでしょうけど、
今は気持ち的に、どっか、母親の価値感に引っ張られるので、自分らしい考え方100パーセントでは行動できていないもどかし〜感じ。


周りの人たち(母親)の言葉にいちいち傷ついて、気にして来ちゃってるから気分の浮き沈みが出るな。周りの人(母親)から「ここでは、こういう言葉をかけてほしいな」と潜在的な願望を抱いているときに「できてない」「もっとこうしたら」とか言われると、なんでこの場で一番かけてほしい言葉をみんなくれないんだ?意地悪だな、みんなっていう風になります。だから私はその不遇な経験もしつつ、自分自身はほかの人に対して、

 

「イイことは、分かりやすく、しっかり、その場で、褒めよう、評価していることを伝えよう」と心掛けています。

「みんなももっともっと人に優しくなったり、褒めたりすればいいのに」


結構褒められたくて生きてる人ばっかりに会うので(職場や社会は)需要があるけど、供給は追いついてないのかもしれません。悲。
それだけみんな、「今あるものに満足して生きるという価値観」を知らずに、「常に無いものを追いかける生き方」をさせられているんだと本で読んで、腑に落ちました。

「人からの評価や、褒め言葉を存在価値や自分の感情のエネルギー」にしていたら、

いつまでも誰かを求め続けて、依存の対象にしてしまうんだなって。そういうことをわかったからって治癒できるわけではないですが、同じ傷を増やさないくらいはしたいのです。

 

「面白くないことを八つ当たりするな」とかよく言われます、母親から。
面白くないことってじゃあ、何なのかっていったら、「そういうこと全部だ」って言ったって、誰もわかってくれやしない、だから、

「俺は歌うんだ、俺は弾くんだ、俺は叫ぶんだ」

っていう人の気持ちはよくわかるから、そういう気持ちに乗っかって、そういう詩、そういうメロディ、そういうスピリットで歌われた歌に感情を乗っけて、(そういうのを心理学用語では「カタルシス効果」というそうです)


そういう歌で、虚しいとか、悲しいとか、自暴自棄とか、を表現するしかなくて。

案外そういうとこ、孤独なんですよね。「わかるよ」って言ってくれる人がいない、だから、虚しい、寂しい。

時々ふっと虚しくなるんですよね。
何のためにこんなに配慮したり、気遣ったりしてるんだろうって。それでも寂しいとか、

虚しいっていう感覚が拭えるわけではないのに。
そういう時に音楽にそういう気持ちを乗せちゃうっていうのは結構あるかもしれないですね。

むしろそういう時の音楽は自分自身の為にある音楽で、結局ベースはそこなのかもしれません。

 

感情だそうって思っても出にくい人はいると思います。うちの母親がそういう人らしくて、あまり目立たない方だったって言ってました。それでも逆にぐちぐち文句を言うので、プラスマイナスゼロだと私は思っています。でも外面的、体裁が良ければ、世の中には伝わらなくて、良い人だと思われるのです。世の中に伝えるためには、ある程度恥ずかしさを捨てて、さらけ出す必要がありますが、平素から「変わった人」と思われるのは、不本意なので、良い人を装って生きてしまいますね。
そうすると確かに本当の自分ってどこなんだろうっていうのは、一人の時に棚卸しして、再確認して。それでも他人から見た自分と自分が思う自分に差がある場合は、軽く引きこもります。(心とじ)

 

今は実際長期の引きこもり生活ができないですが、ニート歴は1年、2年、半年と半年とあるので、そうやって閉じてた時期もあります。32になってようやく若さのある時期に若さを生かさず贅沢に無駄遣いしたなぁと思います。

結局、人生って一度きりだし、今日も明日も一度きりしかないのだから、もっと丁寧に生きるべきだっていうけれど、「すべき」は何をすべきなのか、それを考えることすら、苦痛だった時期もあり、今は「すべき」から「したい」にシフトしたけど、

それでも日々の面白くないストレスなどは無くならないわけで、それでも前を向いて歩かないとまた失われた時間を産むだけだと知ってるから、今は少しだけ、頑張っています。


土鍋でコトコト煮込むのを覚えてから、自分の食べれる具だけ入れて作ってます。

料理作らないで、外活動ばっかりやってると、家におかずが用意されてるとは限らないので、やってます。
やらないと母親から「料理から撤退した」って先月は言われました。
母親もめまい、舌痛、寒暖差頭痛など病が日常化、慢性化しているので、料理しつつ、歌ったり、ギター弾いたり、洗濯したり、部屋の片付けやったりする感じです。



今日、母親が嫌でも聞こえてくる私の音楽に対して「表現力があって、上手いと思う曲もあった」と言っていました。私は歌や演奏に感情が出るので、(それは自分でもわかるし、意図的に出す事もある)演奏のしかたが回によって変わったり、すごく激しく弾くときもあるって言ってましたが、そういう激しい弾き方の曲って大抵ロック調の曲でそれを真似している部分も多々なのに、弾き方そのものが私の感情の発露だと思われてしまうのは、練習なのに、恥ずかしいかぎりです。

 

「このままの生活をするなら出て行ってくれと前も言ってましたが、今朝も起きて来てすぐに言い出し、お前は父親にも見捨てられ、弟にも見捨てられ、ペットにも見捨てられ、今日は終戦の日なのに、生きたくても生きられない人たちがいたのに、お前みたいな奴がどうしてこんな状況が続いて、生活も改めない努力もしない奴が、どういう神経で居られるのかわからない」

みたいな事を言われ、母親から自分の存在意義や価値を否定されて、ここにいたいならもっとちゃんとしろって言われて…。

 

私としては、「ここにいたいというより、以前より思っていたけど、母親は本質的に私リズムや考え方が違っていて、歩調が合わない時もあるし、おまけに手伝ったりしてても存在意義まで否定されて、もうここにいてもな、楽しくないな…」

確かに金銭的にはお世話になってるけど、それだったら一人暮らしを選んだって、バイトが辛いかもしれないけど、母親の言葉も十分、十分すぎるほど辛辣だしどっちを我慢するかで、今までは、母親の辛辣な言葉を我慢して来たけど。

「養えない出て行ってくれ」と本気に近いニュアンスで言われてるわけだし


だからって、今仕事してないわけじゃないけど、ほとんど否定されてるようなもんだから、

ダブルワークで所得倍増して、家に入れるお金を増やしていくしかないわけですが、

それで、満足してくれて、何も言われなくなって、この生活を維持することを頑張っていくってシナリオに辿り着くのか?

 

と思ってしまって、今、ずっとバイト探しを見てました。ホテルのフロントとか、ガストのキッチンとかコンビニとかスーパーとか牛丼チェーンから…今の清掃の仕事が結構楽だから、他の仕事のやりがいとか検索してみると、どれも大変そうで、やりたいって思えるものがあるような無いような…でもそんな言い方で逃げてると自分の存在意義を問う母親に「養えない、このまま出てけ」と言われるのだから、

やってみるしか、もう方法はないのかなとか夜な夜な考えてたら、寝れませんね。

 

いつだってそうやって前向きな気持ちでやってきたのに、結果らしい結果にありつけない苛立ちもあるのですよ。
意志があるからこそ、こんな風にしか生きれない辛さもあるんです。
だれかの考えに染まってうまく歩んでる風な期待レーンに乗って走る生き方だってあるのに、

わざわざ全力で自分の考えを全力で生きた結果、自堕落で養えないって言われてしまってるんですから、

ポジティブでもなんでもない。

芽が出ないくすぶっているところを母親に笑われているようなもんです。

 

わたしにも悩みそのものに囚われてた時期が長くありました。

 

思考が考えて、答えを出すことなんてたかが知れてるっていうことを私は逆に忘れないように、頭に置いてます。
思考や考えに自惚れて、逆に視野が狭くなってることに気づかないっていうのもありますよ。

視野を広げようとするから広がるのかなぁ、それって思考を柔軟に使えるかどうかの問題なのかぁ?と。

 

「成長したい、成長したい」って思ってるとなかなか思ったような結果が出ないときってあるじゃないですか?私はあるんです。
かえって何も力まずに自然な感じでやれるようになって、別にドヤ顔にもならなくなったくらいに忘れた頃に、
「成長したね」とか言われて
「え、?今?今のが?」っていう
何かを一所懸命、意図することなんて
そんなに大したことないことしか起きない。
でもそれを自然と積み重ねていくと、ある時、急に人から認められるくらい、できるようになってる。
これっていろんなことに言えるなぁって。

音楽以外でもそうだし、
「頑張ってるね」って言われるのは、本当に頑張って頑張ってる時に言われなくて。
抜けたあたりで「頑張ってるね」
「えー、、!そこなの?」

 

母親が人生で描く「成功の図」と
私が描く「人生の成功」が一緒だったら、摩擦は起きないでしょうけど、
母親の描く人生のパターンに

ストリートミュージシャン
ボランティア活動も
スポーツクラブでのダンスやヨガも
乗馬も、よさこいも、太極拳も、
海外で一回でもひとり旅も無くて。

 

そこを母親から理解されようと頑張ると、価値観の違いの埋まらなさに悩まされてしまって。進めない。

この人とは、何を大事に思うかの価値観が違うんだ、頑張ってるって認められなかろうが、私は私の価値観で好きなことをやっていれば、

認めてもらうことが目的でやるより、落ち着いて取り組める。

期せずして、認めてもらうことがあるかもしれないが、少なくとも母親の価値観に依存して生きるのをやめれば、

自ずとアイデンティティは見つかる。

 

という具合に視野を急に広げることはできなくても、やっていくうちに、

ドヤ顔しなくなった頃急に「視野が広いですねー!」と言われるようにまで、成長するんですよ。

これが私の体感ですかね笑

 

 

人と暮らしていても、自分らしい生き方ができたらいいと思う、今日ですかね。