生きてるだけで100点。

生きてるって何かを表現することでしょう 表現せずにはいられないのかも知れません..............虚空に逃れようとしても ここにいるのを誰かに見つけて欲しいのかも知れませんね

路上音楽への矜恃 と親への経済的依存

自分が歌ったのとか、弾いたのを録音して聴くと、まだまだだなって思うところがいっぱいあって、手放しに人に聴かせて褒められるレベルではないっていうか。

うちの母が音楽のレベルにうるさい人なので、全然今のレベルで人前でやれるとは、思ってないんです。


もっとクオリティをあげないと「ただの発表会」って言われるんで、そしてそれを言われるのは「馬鹿にされてる」みたいで悔しいので、ある程度は技術研鑽に励むべきだと考えてます。だから自主練に充実した気分になるんだと思います。

 

<ストリートミュージシャンとしてのコンセプトをわかりやすくご紹介>
ぶっちゃけただストリートで演奏するだけなら、明日立ったっていいと思ってるんです。うまいとか下手とか、評価されるかとかそういう目的じゃなくて、ストリート仲間さんの言うような、「大切な人を守る勇気のため」なら、音楽的な素養や技術なんてすっ飛ばしたって、ART(アーティスト)として、主張として、表現として、成立するんです。ってな感じの音楽をやって、ます。

 

なぜ、弾き語りに興味を持ったかーーー

音楽が好き。アカペラでも歌える歌唱力と好奇心。

私は、幼稚園から歌が好きでしたが、ギター持って弾き語りや路上で歌ってみたいと思ったのは……大好きになった人に振られた失恋がきっかけで、そういう自暴自棄な気分がないと路上で歌おうっていう発想にはならなかった方なんです。

私の場合、1人だったらやりたいとすら思わないので、やれるかって言ったら可能だけど、やりたいという情熱はないです。

理由は、既にストリートミュージシャンの路上ライブがどんなものか知っているからです。東京でも路上で歌ったことあって。経験から。

 

知った上で、誰かと一緒ならやりたいと燃えるのなら、それは立派な情熱だし、でもそれがストレスや過緊張だっていうなら、無理してまで、やらなきゃいけないことってわけじゃないです。

ギター弾く時間が増えました。音楽理論もインターネットからひろってきてます。

(ノンダイアトニックコードとはなんぞや、ドミナントサブドミナントとはなんぞや、調性(トーナリティ)とは?トニックにおいての長3度、完全5度とはなにか、それがドミナント につながる。そういう知識をめちゃくちゃ読み漁りまして、勉強になりました。

ハ長調のダイアトニックコードを覚えたり。前よりは、ギターそのものを弾きまくり、音は向上しましたが。歌うと半分力を持ってかれるのは、相変わらずですよ。「それは練習が足りない」と一喝されました。弾けない母親にねv

 

ギター向けの曲とギターに合わない曲があるんで、分数コードだらけとか、コードがいまいち、ばしっとハマんない曲とか。だから好きな曲でも演奏しながら弾けそうか、無理か、っていう選抜があります。ここに書いてる3倍は、弾いて試してます。ここに書いた曲は、それなりにギター弾いて歌える曲たちばかりです。そうやって試して、さらに磨いて、やっとストリートで披露です。その手間すら楽しいです。

ブログの加筆修正や、コード書き写したり、YouTubeで知らない曲を覚えるために聴いて、それでけっこう休んでばかりってわけじゃないのに、親に「休んでばかり」って言われるから最近親が嫌いになってきた。

 

これで路上ライブやったら、いい感じに疲れてもっと熟睡できるかな。

眠れなくても。いいんですけどね。別にそこは自己肯定感あるし。

今の私はコード書き写したろとか、これ路上で弾いたろっていうのが、
親のすねかじりって言われる以外のアイデンティティです。

一人で路上に立つのは、寂しいけど、二人だったら共感できるし、
あれやろか、これやろか
相談できるのも、仲間ならでは。

普通の仕事やってるだけではつまらないし、せっかく自分のできることを披露できないのももったいないし

音楽で食べれなくてもいいから、音楽で発信していこう、とか思うようになりました。
路上ライブでいい。路上ライブがいい。

 

今の仕事はパートで働いて2年になりで週5日三時間、清掃の仕事なんですが、それで余ってる元気で夜型で結構遅くまで起きてて、昼間まで寝てるっていう。ライトなフリーターをやってる感じが同居母から全肯定されてはなくって、だからって「母親の期待に添う生き方」もしたくないし、「そういう働き方で食ってけないだろう」っていう母親の言い分もごもっともですっていうのが、なんか寂しさとか、虚無感につながってて。

 

それで路上ライブでもやろうとする自分が、
どっか救いを求めるてるような…
どっか逃げているような…
どっかで肯定されたいと思ってるような…
そういう気分になんだなって夜中に思ってしまい…
深夜3時に弟に愚痴の電話をしたら…


その声で母親が起きて

「何考えて生きてるの?」

(何考えてって、あなたには見えない世界でしょうけど、私なりに考えて生きています)

って言われて慌てて電気を消して電話を切ったけど。
結局、母親と私の距離感や私の虚無感をどうやって埋めたらいいのかって考えると…

 

「夜型」を頑張ってやめて、今より昼間ちゃんと働いて生活費を捻出することを努力すべきなのに、そういう努力に挫折した自分に戻る怖さに抵抗して逃げて、また夜型で夜な夜な起きて叱られるっていう私自身の身を置く場があるような無いような状態に向き合うと、やっぱりしんどくて、でも今の生活にはある程度満足しつつも、どっか変えなきゃ行き詰まりそうであり……

 

面白くないことを八つ当たりするな」とかよく言われます、母親から。
面白くないことってじゃあ、何なのかっていったら、

「そういうこと全部だ」って言ったって、誰もわかってくれやしない、

だから、

「俺は歌うんだ、俺は弾くんだ、俺は叫ぶんだ」

っていう人の気持ちはよくわかる。

 

そういう気持ちに乗っかって、そういう詩、そういうメロディ、そういうスピリットで歌われた歌に感情を乗っけて、(そういうのを心理学用語では「カタルシス効果」というそうです)


そういう歌で、虚しいとか、悲しいとか、自暴自棄とか、を表現するしかなくて。

案外そういうとこ、孤独なんですよね。「わかるよ」って言ってくれる人がいない、だから、虚しい、寂しい。

時々ふっと虚しくなるんですよね。
何のためにこんなに配慮したり、気遣ったりしてるんだろうって。それでも寂しいとか、

虚しいっていう感覚が拭えるわけではないのに。
そういう時に音楽にそういう気持ちを乗せちゃうっていうのは結構あるかもしれないですね。

むしろそういう時の音楽は自分自身の為にある音楽で、結局ベースはそこなのかもしれません。

 

 

私の過去の出会った素晴らしい人たちは、体裁よりも、ちゃんと真実の姿に向き合ってくれたからこそ

独身で、親から経済的自立できてなくても、働いて、働いて、働きまくる生き方がしたくないから、フリーターでこういうパートしてることも、わかった上で、「じゃあ、あなたは、どう生きたいの?」と問うてくれた。

 

世間からの常識よりも「自分自身がどうありたいか」を先に考えろと問うてくれた。

でも、じゃあ、さらに突っ込んで、自分で自分に「才能を隠さないで思う存分、外に出す生き方できているか?」と問うてみると、それはできてなくて、くすぶっている。

労働一辺倒ではなくても生活できた自分は、運が良くこうして生き延びることができた。

しかし、労働一辺倒ではなくても生活できた自分は、「甘えって言われる構図ってなんなんだ!」という想いもある。

 

働くためだけに人間は生まれて、大人へと成長し、働くことでしか、生存価値がないのか?という疑問が湧く。

 

今日、母親が嫌でも聞こえてくる私の音楽に対して「表現力があって、上手いと思う曲もあった」と言っていました。私は歌や演奏に感情が出るので、(それは自分でもわかるし、意図的に出す事もある)演奏のしかたが回によって変わったり、すごく激しく弾くときもあるって言ってましたが、そういう激しい弾き方の曲って大抵ロック調の曲でそれを真似している部分も多々なのに、弾き方そのものが私の感情の発露だと思われてしまうのは、練習なのに、恥ずかしいかぎりです。

 

 

母親が人生で描く「成功の図」と
私が描く「人生の成功」が一緒だったら、摩擦は起きないでしょうけど、
母親の描く人生のパターンに

ストリートミュージシャン
ボランティア活動も
スポーツクラブでのダンスやヨガも
乗馬も、よさこいも、太極拳も、
海外で一回でもひとり旅も無くて、

 

社会との距離感うまく行かないから働くことに躊躇い、結果的に経済的に依存してることがそんなに悪いことか?と思って。

そこに対して、躊躇い。抵抗し、拒絶し、うまく向き合って来なかったのは、確かだけど、「労働、労働、労働、労働、お金、お金、お金、お金」っていうことばかりで

物事を測る社会の価値観に染まり切らないと言えば、カッコつけかもしれない。

 

でも本当に労働とお金しか価値がないのだとしたら、つまらない。

 

でも結局はしあわせなんだ。

目の前の出来事は全て自分の望み通りであると

さとうみつろう著 「神さま&悪魔とのおしゃべり」で読んで納得したよ。

こうやって生きれていることにありがとうございますと神様に感謝して生きるぜ。