楽器演奏の練習が孤独な作業になる理由
聴くのは簡単だけど、弾くのは難しい。
聴くには1分もあれば十分なのに、1分後に弾けるなんて、熟練になるまでムリ…
それだから、弾けない人ほど、弾く世界が見えていない現象が起こる。
弾けない人ほど、人の演奏を「上手か、下手か」の一刀両断をし、発展途上の演奏家の卵の心をへし折る。
どうして、弾けない人ほど、「弾けるようになるまでの道のりの険しさを共感できないのじゃ?」と自分なりに考えた。
芸術家の苦悩は芸術家にしかわからないからだろうか…
その現象はわかりやすく例えるなら、どんな現象に近いだろうか?
「上手いか、下手か」を感じること…上手い、不味い。あ、料理だ!
例えば、デミグラスソースを初めて作ったとする。レシピを見て忠実に。
食べる人はただ、食うだけ。
どうやって、デミグラスソースができたのか。
何の具材が入っているか。
どんな調味料を使っているか。
何時間火を入れたのか。
その火はどのくらいの火力で入れたのか。
水はどのくらい入れたものを煮詰めたのか。
とあらゆるプロセスを考えて食べるだろうか?
いや、ただ食べるだけだ。
そして不味ければ、不味いといってもおしまいだ。
それと同じことが起きるんだと思った。
楽器演奏をした場合。
聴くのが、食べることと同じなら、聴く人間には手間、レシピの複雑さや難易度は関係なく、
音を聴くだけ。
上手い演奏を聴いたことがあれば、それと比べられて終了。
結局、上手くなるまで一人で練習するしかない。
その道のり困難は同じ立場で練習している人間に聞いてもらうのがよい。
練習を重ねている人間同士にしか、この気持ちはわかってもらえない。
プロセスを考え、試行錯誤した結果が今現在のベストだ、自分の精一杯の努力だという意味が伝わらないんだ。
聴くことも食べることも、受け手になることは、0歳から100歳までできる。
でも料理を作ることも、楽器を弾くことも、複雑な、高度なことだから、幼児と超高齢者には難しいことで、できない。
なので、作り手や演奏者の側に立てるってことがまず、すばらしいこと。できない人からすれば、すごい人。
その上で受け手が「すごい」と目の前で認めてくれないことで、落ち込むのは、もったいない。
作り手である以上、受け手よりもたくさんの複雑なことを理解して、実践しているわけで、その苦労は舞台裏の話。
舞台裏の裏側まで受け手が理解できたら、その人は逆に作り手も必ず経験しているってことだ。
楽器を演奏したことのない母親にいつも私は、楽器演奏の練習の孤独や挫折を語ってきたし、
練習をさぼりがちだったピアノと、それよりはモチベーションが高いギターの違いについても話してきた。
ピアノとギターどっちが難しいのか論争に自分自身も両方弾いた経験から参加するならば、
自分はギターのほうが、弾きやすい。
ピアノのよりギターのほうが、弾いていて楽しい。
幼稚園からピアノを習わせてもらい小学6年くらいまでピアノのレッスンを週一受けていたけど、
レッスン以外にウチでKawaiの16万の電子ピアノを練習で熱心に弾かないことを
「ピアノ練習しないな」ってずっとずっと、習っている間ずっと母親から言われ続けて、
確かに練習しないけど、音楽や楽器が嫌いってわけじゃないし、練習がもっと楽しかったら、
上達が目に見えてだったらモチベーションも上がるだろうけれど、結局そんなにピアノにはハマれなかった。
20歳頃に路上で弾き語りしたいからと、ギターを独学でスタートして、路上仲間にちょびっと教えてもらったくらいで
あとは本当にひたすら一人で練習した、ギター。「練習しないな」っていう嫌な思い出を塗りつぶすように
ただ一人でギター弾いて、それで行き詰まったら、路上練習仲間をさがし、2回くらいの練習で反省点を持ち帰り。
そんなふうに孤独にギターを弾いているうちに、ピアノよりは、しっくりくるなって、弾きやすいな、指の痛さは異常だけど、
ピアノよりは簡単だと思ったギター。
同居の母親に、今も漏れている練習の音は何か小学生のときピアノを家で練習しなかった頃の私とどう結びついているだろうか。
楽器が嫌いだったわけじゃない、音楽が嫌いだったわけじゃない。ただゴールの見えない音楽の上達という目的に戸惑い
少し距離を置いて、ピアノとかかわっていた小学生の私が、ギターで本領発揮して、弦を弾く喜びを噛み締めて演奏する音は
時の流れの仕業だけなのか、それとも…